刑事訴訟の原理(2)

証拠禁止(Beweisverbot)の観念は、ベーリング1903年の論文「刑事訴訟における真実発見の限界としての証拠禁止」によって確立され、以後、多くの刑事訴訟法学者の採用するところとなった。


ベーリングは、訴訟法秩序自体が、本来真実発見を追求するものでありながら、時としてはこれを断念として別個の利益に奉仕しようとすることに着眼し、ドイツ刑事訴訟法を素材としてこの種の現象に鋭い分析を加えた。


彼が抽出した証拠禁止の根拠は、国家の利益、王族の利益、訴訟関係人の人格的利益、親族関係、業務上の秘密、私有財産権の6個で、これらを保護するための証拠禁止の意義、効果、態様などが、解釈論的、立法論的に検討されている。


ベーリングは、証拠禁止に違反して得られた証拠は判決の基礎とすることができないと説き、このために犯人が無罪となることもありえようが、そこから証拠禁止を廃せよと論ずるのは一面的かつ近視眼的だと断じた。


しかし、問題は、実定法上どの範囲で証拠禁止が肯定されるかにあり、ベーリング自身は、「刑事訴訟における真実追求という国家的利益が、他の国家・団体・個人の利益にどこまで優越するかは多大の研究を要する問題だ」と論じつつ、「幸いにして証拠禁止の規定は例外的である」と述べるにとどまった。

警察の証拠収集が強引だったら、証拠にならないよの発祥は1903年か。意外と古い。


この人権保障と証拠禁止の関係について、新たに重要な発言をしたのが、1950年ごろに発表されたニーゼの論文だそうである。


ドイツ法は

とくに異色があるのは、公判廷外では鋸術を拒否しなかった証人が、公判廷で証言拒絶権を行使した場合、すでに存する供述調書を証拠とすることも許されない、という252条の規定である。


我が国では、証言拒絶権が行使された場合、検察官面前調書が当然に証拠になりうるとされており、この点における彼我の懸隔は大きいといわなければならない。

注意として、この本は40年以上前に出た本で、当時からしても10年前に書いたという論文も掲載されているし、歴史的な経緯として覚えておこう。

最後に、そしてもっとも重要な論点として、ドイツ法における証拠禁止の問題が、「人間の尊厳」や「人格の自由な発展」という理念的なものを中心として展開していることをあげなければならない。


それは、アメリカ法が、違法捜査の抑制という政策的な目標を第一に掲げるのとは、鮮やかなコントラストをなしている。

同じような結果を生むのに、根拠はそれぞれの国で全く異なるなんて、他国の刑法もかじってみたくはなる。しかし、やっぱり本が出てないし、外国語を覚えるところから始めないといけないんだろうな。