歴史に学ぶ刑事訴訟法(1)

歴史に学ぶ刑事訴訟法

歴史に学ぶ刑事訴訟法

読み始めると、ファシズム、と言葉が躍りだし、人権派の人かな?と思った。しかし、題名に「歴史」とあるように、根拠をちゃんと持ってきているので、読み辛いということはなかった。どこまで、恣意的なのかは分からないが。

旧刑訴法のもとでは、捜査権限は予審判事に帰属し、検察官は現行犯や軽微事件を別にすれば強制処分権を与えられていなかった。

取調目的による身体拘束は本来は違法・違憲だが、その事実上の権限を与えれたことで、検察官は被告・弁護人に対して圧倒的に優位な立場に立つ。しかも予審制度の廃止により、被告事件を公判に付すべきか否かを決するのは予審判事ではなく、国家追訴主義・起訴便宜主義による公訴権を独占するのは、いまや検察官である。

私がなぜ刑訴法も追いかけるようになったかというと、日本の起訴制度が世界と比べてどう違うか知りたく思ったからである。意外と早く端緒が見つかった。

偽善的に中立として描かれた本より、この本のような独善的とも言われかねない本のほうが、その理由を書かれていた場合は分かりやすい。

たとえば陪審制度では、当事者による証拠請求を容れるか否かという証拠採用(証拠決定)の過程と、採用された証拠をどのように評価するかという証拠評価の過程は明確に区別され、前者は裁判官が、後者は陪審員が行う。


しかし現行刑訴法の下では両者ともに同一の裁判官が行うことになっている。

日本の近代刑事訴訟法典たる1880年の治罪法ならびに1890年の明治刑事訴訟法の母法たるフランス治罪法(1808年ナポレオン刑訴法典)や、1922年の大正刑事訴訟法(旧刑訴法)の母法たるドイツ帝国刑訴法(1877年)もまた、決定証拠主義を脱して自由心証主義を採用していた。

大正刑訴法は現行刑訴法の前身である。この戦前の旧刑訴法は、そもそも検察官等の検査機関の強制処分権限を認めず、自白調書を含む供述調書も、供述者の死亡の場合を除き、予審判事作成のみを証拠として認めていたに過ぎない(343条1項「法令ニヨリ作成シタル訊問調書」)。タテマエではあれ戦前の刑訴法ですら捜査が刑事手続の主戦場をなす自白裁判からの脱却を標榜していたわけである。

結構、旧刑訴法は暗黒ぽく感じていたが、建前としては現行の実態もかなり怖いものなんだ、やばいといわれるのもむべなしか、という気持ちになって来た。