責任主義とは

入門刑事法 第4版

入門刑事法 第4版

罪刑法定主義と並ぶ、近代刑法の基本原理が責任主義であって、これによれば、違法行為を犯したことについて行為者を非難しうる場合でなければ刑罰を科すことができません(責任なければ刑罰なし)。責任主義は、近代刑法においては、特に主観的責任および個人的責任の思想として重要視されています。主観的責任と言うのは、結果的責任(客観的責任)に対する考え方で、法益侵害の結果が発生しただけでは行為者を処罰し得ず、行為者に責任能力(刑事責任を負担しうる能力)と故意過失が備わり、且つ違法行為を止め適法な態度をとる可能性(期待可能性)がなければ行為者を処罰しえないという思想です。一方、個人責任とは、かつて存在した連座・縁座の制度のような団体的責任に対抗し、行為者は自己の行った個人的行為についてのみ非難されるべきであって、一定の団体に属することを理由に他人の犯罪について処罰されてはならない、とする考え方をいいます。


ここでいう責任は、違法行為を個なった行為者に対して「けしからん」としてこれを規範的に避難できることをいい、この意味での責任を規範的責任と呼んでいます。文学作品を例にとりますと、フランスの作家ヴィクトル・ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』(1862年)の主人公ジャン・ヴァルジャンは、たかだか一片のパンを盗んだことがもとで長期にわたる徒刑場生活を余儀なくされることになりましたが、期待可能性の思想によれば、貧困のためパン一つ買うことのできない状況に置かれていた彼の行為はまことに無理からぬものであって同情に値し、国家といえども彼にそのような行為に出ないことを期待することはできず、ジャン・ヴァルジャンに刑法上の責任を問うことはできないということになるでしょう。


責任の本質をめぐっては、従来、学説が鋭く対立してきました。古典学派の徳道義的責任論によれば、責任とは、行為者が道義的な規範意識に従って適法な行為を選択することができ、かつその選択に従って適法に行動することが可能であったのに自由意思によって違法な行為を選択したことについて、行為者を道義的に非難できることを意味します。道義的責任論の説く責任概念は、個々の違法行為を責任非難の基礎に置くという意味で個別行動責任と呼ばれ(行為責任論)、また、個々の違法行為に向けられた行為者の意思に対して責任を問うという意味で意志責任とも呼ばれています。


これに対し、近代学派の主張する社会的責任は、責任を「反社会的性格に基づく社会的危険性をもっている者が、社会を防衛する手段として課されるべき刑罰を甘受しなければならない法律上の地位」の意味に理解しています。ここでいう「責任」には、意思決定の自由を前提とする非難の要素は含まれておらず、責任の大小は、専ら犯人の将来における犯罪反復の危険性の大小に基づいて決定されることになります。社会責任論は、個々の行為とその意思は行為者の犯罪的性格の危険性(悪性)の微表にすぎないとして、その独立の意義を否定し(微表主義)、犯人の危険な性格に、社会からの防衛処分を講ぜられる基礎を見出そうとするのです(性格責任論)。

どうも、アメリカのほうで精神障害者も罪に問われるけど、単純に責任を問われるわけでもなさそう(3度読み返したがまだ意味をとらえきれていない)のは、責任主義が近代刑法の基礎として重要だからか、と少し納得した。

でも、素人がこの本の文章を読んでも短すぎて分かりにくい(行為責任論と性格責任論の欠点が分からない)ので近々「刑法の歴史」(有斐閣)を読む予定である。その時にはブログの書き方を変えるか思案中である。